国吉城

別名-  付近住所 福井県三方郡美浜町山上 現在-
2009/5/4 碑・案内板アリ 日本城郭大系


粟屋勝久

木村常陸之介
国吉城址概略
 美浜町指定史跡国吉城址は、若狭国守護大名武田氏の重臣であった粟屋越中守勝久によって、弘治2年(1556)に築かれた中世の山城跡である。通称「城山」の最高所(標高197.3m)を本丸とし、北西に延びる尾根上には段々の削平地(曲輪)が連続し、その先端に丹後街道が通る椿峠があった。尾根の斜面は切り立って急であり、守り易く攻め難い城であった。実際に、永禄6年(1563)から数年におよぶ勝久と越前朝倉氏との戦いにおいては、城を守り通して名声を内外に轟かせ、その活躍は「若州三潟郡国吉籠城記」などの軍記物にまとめられた。元亀元年(1570)、越前攻めのために木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や徳川家康らを伴って国吉城に入城した織田信長は、城を守った勝久を褒め称えたと伝わる。
 その後、天正11年(1583)に入城した木村常陸之介定光は、椿峠を越えた丹後街道が集落の中を通るように道筋を付け替えて町割りを行い、佐柿の町を興した。江戸時代に入ると国吉城は廃され、寛永11年(1634)に若狭国の領主となった酒井忠勝は、町奉行所と藩主休息所として御茶屋屋敷を置いた。以降、佐柿は三方郡の中心、丹後街道の宿場町として繁栄し、現在も当時の景観を色濃く残した古い町屋や寺社が現存している。

本丸跡
 ここは、国吉城の本丸跡で、大正時代に立てられた城址碑がある。東西約70m、南北約30m、南隅に土塁が残るほか、北西側と東側に出入口(虎口)がある。虎口付近や斜面の周囲には大量の石が散らばり、所々に積まれた痕跡が残ることから、往時は周囲に石垣を廻らしていたと思われる。また、城山の所々に板碑や墓石が散乱しており、城址碑の脇に一部が集められている。これらは国吉籠城戦の際、粟屋勢が周囲から集め、攻め登る朝倉勢に向かって投げ落としたものと伝わる。
 本丸からの展望は大変良く、東は山東の諸集落と、若越国境であった三国山、野坂岳、旗護山と敦賀半島が一望できる。北は若狭湾と天王山、西から南にかけて佐柿の町並みと新庄を除く美浜町のほぼ全域、遠く三方五湖や三方町の山々を見ることができ、当時から四方への展望が開けた立地であったことが判る。